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今回の震災では、人の隠れていたいろんな側面が見えた気がする。


自分は基本的に「明日、なにが起こるかわからない」という状況に関して、ストレスがほとんどない。
その裏返しは「明日、何かをやる予定」っていうのがぜんぜん守れないってのがあるんだけど。

この震災も、心理的にはわりと平常運行してたほうだと思う。

あと、他人への共感能力を敢えて、知らん振りする事が出来るから、
周囲が動揺していても巻き込まれづらく見える(ているに違いない)


そう言えば、こうした非常時には、普段の生活ではあまり言わないことになっている
自分の世界観や思想みたいなのを表明する機会が多い。

普通の生活をしている時には、人には無意識に自分を取り巻く平穏な環境への空気のような信頼がある。

昨日平気だったことは明日も平気、ということだ。

まさか、エアコンが使えない危機感が来るとは思わないし、
水道水すら飲めないとは思わない。


その前提においてのみ人は例えばレタスの価格に一喜一憂できる。


今回の非日常というのはごくお手軽なレベルでは、レタスが手に入らなくなったということだ。

ここにおいて鋭い人は「レタスが手に入らない世界」について、極端に言及しないわけにはいかなくなる。


そして、この状況に関して、両極端な反応をする人たちがいる。

一部の人は「大変な状況なので、大変な状況っぽく振舞わなければならない」と思ってる。


そして、反対側にいる何人かは「大変な状況になってるらしいけど、あんまり見たことない状況なので、
ワクワクしている」ように見える。

そんで、前者の「危機感を持たなければならない」人たちが、
後者の「危機感をおもしろがってる」人たちのことを「不謹慎」と叱る。

ちなみに、残り半分の人たちは「大変な状況らしいけど、どうしたらいいだろう」と不安に思ってる。

この状況においてなにが起こるか。

仮に「非常時っぽく振舞わなければならない」と思う人たちのことを「感受性の高いまじめな人」と呼ぶ

まじめな人は、状況の変化に耐えられない。

スーパーの福島産のブロッコリーの価格の変化が生活に与える影響をよく知っている人たちで、日々の些細な変化を敏感に察知し、それらを日常に引き戻す力が強くはたらいている。

それらの人々には守らなければならないものが多い。代表的なものは家族だったりする。

それらの人々の戦場は日常だ。

戦うためのノウハウは、日常に特化している。それゆえ、前提である戦場を覆されたときの衝撃は大きい。

非常時であると強く認識する為、この震災は一種の社会不安といってもいい。

ならば、非常時的な雰囲気がすべてを覆いつくすべきだと考える。

自分みたいな生活が戦場でない人間からしてみれば、

「ブロッコリーなくてもまだカリフラワーでヨクネ??」とか思うわけなんだけど
前者の人々は「レタスがないというのに、なんでのんびりしてるのか!」と来る。


そんで、反対側にいる「落ち着いてワクワクしている人たち」は、実は自分が不謹慎であることには自覚的だ。

ブロッコリーに限らずだが、ガソリンにしろ生活には必要不可欠なものなので、
その入手が困難な状況で「いつか待ってればガソリンくらい手に入るでしょうに」と言明することが、
真面目な人たちにとって腹立たしいものであることは重々承知だ。

なので、余計なことは一切言わない。

残りの人々は、どうしていいかわからないのだから、何も発言しない。


となると、場の雰囲気を支配するのは、最初の「まじめな人」たちだ。


そうすると原発を反対する!とか、放射能が子供たちを!!とか

ひっきりなしに問題意識を高く述べる、いつもは考えもしなかった隠し持っていた思想を表明する人たちが出てくる。


良かれ悪かれ、何も発しない自分にとっては、優先順位の低いものには興味がない。

こういう人間ばっかりだと、世のなか壊れる。

いいも悪いも、世の中が今あるとおりに回転することを、維持しているのは「真面目で主張する人」たちがいるから
だと思っている。

ただ、その前提が大きく揺らいだとき(例えば、今回の震災以上に世界的な終了みたいな)に、
その人たちがどう振舞うのか、ということについては、その時になってみないとわからない。


まあ、俺から見るとわかんない人たちだからそう思うだけなのかもしんないけどさ。


そのくらいエキセントリックになっているのが今回の震災の人間模様だということ。


おわり(・∀・)




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